相場の黄金ルール-「3つのピークとドーム型の家」で天底と日柄を究める
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相場の黄金ルール
「3つのピークとドーム型の家」で天底と日柄を究める
ジョージ・リンジー(伝説のテクニカルアナリスト!?)による分析方法を紹介
本書は伝説のテクニカルアナリスト「ジョージ・リンジー」により1950-70年代にかけて考案されたテクニカル分析手法をまとめた書籍です。中長期の大きなトレンドを把握する方法がまとめられています。
様々なパターンが紹介されており、相場の変化日となりそうな日や天底となりそうな水準を予想する方法を紹介しています。一目均衡表やエリオット波動などの分析に近い方法です。
古い株式市場のデータ分析が中心なので、現在のFX市場にこの分析方法がそのまま使うことができることができるかどうかは難しいところですが、日柄や天底を予測する上で参考になりそうです。
3つのピークとドーム型の家
本書で典型的なパターンとして紹介されている「3つのピークとドーム型の家」というのは次の図ような形の値動きをいいます。
上昇基調に転じ、3つのピークを形成後、一度下押しし、その後、急上昇、一度調整を入れて本格的なピークとなり、下落基調に転じるという流れが基本となります。
慣れないうちは、リンジー特有の表現(「1階の壁」等)に慣れないと思いますが、読み進めていくうちに徐々に慣れてくると思います。
短期のトレードにも応用することも可能?
本書は中長期の株式市場に関してのパターンをまとめた書籍ですが、短期のチャートでも似たような分析を行うことはできそうです。
もちろん、中長期と短期のチャートでは事情が異なりますが、通貨ペアごと、各市場の時間の動きなどの条件を絞るとパターンを見いだし、トレンドの転換ポイントの予想ができるかもしれません。
例えば、欧州時間の序盤はポンドにトレンドができやすく、ある一定の時間まで続くことが多いといったようなものを過去のデータを元に検証してみるなどすると勝率の高い条件を探し出すことができるかもしれません。
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相場の黄金ルール
「3つのピークとドーム型の家」で天底と日柄を究める
目次
監修者まえがき
日本語版への序文
監修者まえがき
謝辞
序章
第1部 リンジーの経歴と『ジ・アザー・ヒストリー』(もうひとつの歴史)
第1章 リンジーの経歴
第2章 もうひとつの歴史
第2部 3つのピークとドーム型の家
第3章 ある現象
第4章 3つのピーク
第5章 ドーム型の家
第6章 3日方式
第3部 リンジーのタイミングモデル
第7章 リンジーのタイミングモデルの概要
第8章 キーデイト
第9章 安値・安値・高値カウント
第10章 カウントを組み合わせる
第4部 カウント
第11章 長期サイクルとインターバル
第12章 基本的な値動き
第13章 ミドルセクションからのカウント
第14章 ケーススタディ――1960年代
用語集
■日本語版への序文
このたび、本書の日本語版が刊行されることを、私はいろんな意味で喜んでいる。そのうちのひとつは、義姉の好加に日本語版を進呈するという約束を果たすことができるからだ。この日本語版を、妻の親戚――福岡の一葉や弥生や隆彦さん――にも読んでもらえればうれしい。
本書の執筆には、ジョージ・リンジーの手法を紹介することだけでなく、これを後世に残すという目的もある。彼は、自分のマーケットタイミングの手法について本を執筆しておらず、25年以上発行し続けたニュースレターに断片的に書き残しただけだった。
しかし、ニュースレターは時の流れとともに消えてしまう。本書の執筆は、リンジーの手法やモデルを理解するために、これらのニュースレターをできるだけたくさん探し出すことでもあった。本書に掲載した例は、すべてリンジーの時代かそれ以前のデータに基づいている。マーケットは、当時からは劇的な変化を遂げ、古い手法が役に立つのかどうか、読者の方は疑問に思われているかもしれないが、心配はご無用。人間の行動――その本質は恐れと欲望――が変わらないかぎり、本書の手法とすべてのテクニカル分析は有効なのである。すべての例をリンジー自身の資料から引用したのは、本書にできるかぎり私見が入らないよう心がけたためだ。
それでもまだこの手法が現代で有効かどうか、疑問に思われるのならば、ぜひ私が運営するホームページのシアトルテクニカルアドバイザーズ(http://www.seattletechnicaladvisors.com/home.html)にアクセスしてみてほしい。
リンジーがアメリカ以外のマーケットを分析していたかどうかは分かっていないが、彼の手法は人間やマーケットの行動の第一原理(ほかのものから推論することができない基礎的な命題や仮説)に通じるものであり、すべてのマーケットに適用できる。現代のコンピューターを多用したテクニックに何度も失望してきたトレーダーや投資家にとって、リンジーのこのようなマーケットの取り組みは新鮮に感じられると思う。
最後に、本書がストック・トレーダーズ・アルマナック(1967年創刊)の2012年最優秀投資書籍に選ばれたことを、私は大変誇りに思っている。
2012年3月
エド・カールソン
■監修者まえがき
本書はテクニカル・アナリストでコンサルタント業を営んでいるエド・カールソンが、かつて相場評論家として人気を博したジョージ・リンジーの相場観測手法を詳細に解説した“George Lindsay and The Art of Technical Analysis”の邦訳である。リンジーは30年以上にわたりニュースレターなどを通じて相場解説を行っていたが、最後まで本人の分析手法の詳細については明らかにすることなく、1987年にこの世を去った。しかしリンジーの手法には今もって価値があると考えたカールソンは、リンジーの死後20年以上たったあともさまざまな手段で資料を集め、研究を行った。カールソンがその集大成として、リンジーのテクニカル分析について平易な解説を試みたのが本書である。
さて、カールソンの目論見どおり本書の内容は極めて簡単であるし、ここで解説されていることは、伝統的なテクニカル分析の最終形のひとつと言っても良いトム・デマークの分析手法(デマークの手法はブルームバーグの公式テクニカル分析に採用されている)とかなり重なるものが見られる。このことからも分かるように、テクニカル分析を行う人にとって、リンジーの手法が不変的な価値を持つとカールソンが考えたことは的を射た考えだと言える。
さらに、デマークの手法の複雑さに比較すれば、相場の上げ下げの形状と日柄のカウントに限定されたリンジーの手法は単純明快で分かりやすく、個人投資家の方が取り組むにはリンジーの手法のほうが敷居が低い。洗練されてはいるが、多くの場合においてコンピューターの助けが必要になるデマークの手法と比べ、リンジーの手法は手作業で分析が可能だからだ。
ところで、一般に「技術」とは、その分野の体系的な知識を習得すれば、だれもが同じ結果を手にすることができるものを言う。もしだれでも等しく望むものを手にし、意図したものを再現することができなければ、「技術」とは言わないのである。したがって、技術体系は複雑であるよりも単純であるほうが良いし、背景の理論についてもつまびらかにされている必要がある。その意味では、いにしえのものが不変的な価値を持つということは、技術の世界では十分にあり得ることなのである。
最後に、翻訳にあたっては以下の方々に心から感謝の意を表したい。井田京子氏には、正確で分かりやすい翻訳をしていただいた。そして阿部達郎氏には丁寧な編集・校正を行っていただいた。また、本書が発行される機会を得たのは社長である後藤康徳氏のおかげである。
2012年3月
長尾慎太郎
■序章
「真実や永遠に色あせない成功というものは、その知識を一部の者だけが占有するのではなく、一般に普及させることによってもたらされるということがこれまで何度も見られてきた」(ロバート・プレクター著『R・N・エリオット・マスターワークス』[R.N.Elliott’s Masterworks])――R・N・エリオット(エリオット波動分析の考案者)
ジョージ・リンジーとはだれなのだろうか。そして、私はなぜ本書を執筆することにしたのだろうか。もしリンジーの名前を聞いたことがなければ、2つ目の質問の答えは出ている。彼は1960年代と1970年代に「株の教祖」と言われた人物で、彼のコメントはニューヨーク・タイムズ紙にたびたび載った。ただ、当時は同じようにコメントを発表していた予言者たちの名前が今日でもよく知られているのに、リンジーを知る人は少ない。テクニカルアナリストのなかでさえ彼の名を聞いたことがある人はいても、彼の功績まで知る人はほとんどいないのである。
リンジーのアイデアは、歴史の片隅にうずもれかけている。彼は自分の手法をニュースレターで断片的に紹介しただけで、本にまとめてはいない。唯一執筆した本はあるものの、それはマーケットではなく、政治と歴史について書かれている(この本『ジ・アザー・ヒストリー[The Other History]』については第2章で検証する)。本書の目的は、彼が発行した多くのニュースレターで断片的に紹介されている彼独自のモデルをつなぎ合わせ、順を追って分かりやすく紹介していくことにある。
彼の手法を使っているマーケット参加者があまりいないのは無理もない。彼のニュースレターを読むのはまるで消防ホースから水を飲むような感じで、彼の文章はとにかく読みにくい。話があちらこちらに飛んで、読者はどこで息をつけばよいのか分からないのだ。また、ニュースレターの構成も非常に見にくい。今日のニュースレターは、見出しや箇条書きを使い、チャートと文章を近くにレイアウトするなどして見やすく構成されている。しかしリンジーのニュースレターを見ると、タイプライターの前に座り、あふれ出るアイデアを次々と打ち込んでいく彼の姿が目に浮かぶ。このときの彼は、この膨大な情報を理解しようと苦心する読者のことなどほとんど考えていない。
現代の世界では、アダム・スミスの見えざる手を期待して同世代で最も優秀な人材がしのぎを削っているが、その彼らでもテクニカル分析をまじないのたぐいだと思っている。また、テクニカル分析を理解して使っている人たちは、似た思考の持ち主同士で集まる傾向がある。しかし、リンジーは無意識のうちに因習を打破していた。彼の手法は、誤ってサイクルと紹介されることが多いが、実はそれまでの手法とはまったく違う独自のものだった。彼の発想は、女優人生のほとんどをオフブロードウエーの舞台で過ごした彼の母親に倣って「オフウォール街」と呼ばれていた。現代のアナリストは、短い時間枠(30分足、5分足、ティック足など)に注目することが多く、それが行きすぎると近視眼的になって目的を見失いかねない。リンジーは、マーケットをもっと大局的に、ある意味では健全な見方をしていた。ただし、これをバイ・アンド・ホールドの手法と混同してはならない。言い換えれば、みんなが木に注目しているときに、リンジーは森全体を見ていたのである。
哲学を理解するためには、哲学者とその人が生きた時代を理解しなければならないと言われているが、ジョージ・リンジーを理解するうえでもまったく同じことが言える。これまでリンジー自身についてはほとんど知られておらず、謎の人物と言われてきた。いったい彼はどのような人物なのだろうか。天才なのか、高校中退の落ちこぼれなのか、芸術家なのか洗練されたウォール街のプロなのか、異性愛者、同性愛者、はたまた性にはまったく興味がないのか、右派の保守派なのか、協調性がなく夢ばかり追う未来派なのか。その答えとして、第1章ではリンジーの生い立ちを見ていく。
リンジーの芸術家としての経験は、マーケットにおいても随所に見られる。20世紀前半のジャズ界で活躍した偉大なサックス奏者のチャーリー・パーカーは、「自分の楽器についてよく学び、あとは練習、練習、練習だ。しかし、ステージに立ったらすべて忘れてただ音を奏でるのみ」と言っている。これは、リンジーのモデルを使うときにも有効だろう。彼のモデルには、音楽と同様にたくさんのルールと特定の数え方(カウント)があるが、その例外のところで魔法が起こる。本書で紹介する指針を学び、練習すれば、「マーケットを感じ」「ただ奏でる」ことができるができるかもしれない。
2011年3月2日
エド・カールソン
■第1章 リンジーの経歴
「君がニューヨークをどう思っているのかは知っているけれど、僕はここ以外では満足できない。独身で慣習にとらわれない僕は大都市でしか生きていけないんだ」――ジョージ・リンジー
家族
ジョージ・リンジーは、バージニアに起源を持つリンジー家の4代目だと思われる。父系の祖父であるアルバート・ロフタス・リンジーは、南部連合軍の将校として南北戦争に従軍した。1862年4月、アルバートはジョン・バンクヘッド・マグルーダー参謀総長の通信部隊長に任命された。暗号や「秘密の伝言」に興味を持ったアルバートの血が、テクニカル分析に情熱を傾けたジョージに受け継がれたのかもしれない。
ジョージの母のネリー・ビクトリア・メイヤー・リンジー(1876~1954年)はミュージカル女優で、ネリー・ビクトリアの芸名でオフブロードウエーの舞台に立っていた。1903年に撮影された彼女の写真が、ルイビル大学に保管されているマコーリー・シアター・コレクションや、ワシントン大学の図書館内にスペシャルコレクションとして保管されている蔵書に掲載されている。ネリーは1954年12月8日に死去した。
ジョージの父のジョージ・シニア(1863~1921年)は、バージニア工科大学で工学を学び1882年に卒業した。バージニア州議会で議事録係の責任者を数十年間務め、1900年3月7日には同州ノーフォークの査察官に昇格し、1921年に死去するまで同市のIRS(国税庁)事務所の初代責任者を務めた。
ジョージ・リンジーは1906年11月11日にバージニア州ポーツマスで生まれた。彼には1910年に生まれた兄のフランク・ロフタス・リンジーがいる。マウント・バーノン・アベニュー229番地にある彼の生家は、今日も残っている。14歳のときに父のジョージ・シニアが亡くなり、ジョージはニュージャージー州のペニントンスクールという寄宿学校に入った。このとき家族は母ネリーの姉妹と一緒に住むため学校から約100キロメートル離れたニューヨークに引っ越した。
リンジー家はみんな工学に関心が高いうえに、ジョージは母の芸術的な才能も受け継いでいた。この2つのまったく異なる傾向は、のちにテクニカル分析に関心を持った彼にとって完璧な素質を与えてくれただけでなく、独自の手法を生み出す助けにもなった。
芸術家としての活動
1927年秋、21歳のジョージ・リンジーは、アート・スチューデント・リーグ・オブ・ニューヨークに入学した。この学校は、ジョージア・オキーフ、ジャクソン・ポロック、ロイ・リキテンシュタインなどそうそうたる卒業生を輩出している。
リンジーは、当時広告業界の大物だったジェームス・イェーツと知り合った。家族によれば、1930年代にキャメル(タバコ)のパッケージの変更にかかわっていたジョージは、兄のフランクにピラミッドの線を描かせてあげたという。イェーツがキャメルの広告を請け負っていたウイリアム・エスティ(広告会社)のアートディレクターだったことは記録に残っており、その縁なのだろう。イェーツはのちにザ・サタデー・イブニング・ポスト誌のアートディレクターに就任した。1933年、ジョージはメイシーズで商業デザイナーとして働いていた。
ジョージの後年を知る人の多くが、彼は同性愛者だったと見ているが、彼は1931年にある女性に結婚を申し込んでいる。ただ、破局の原因やプロポーズを拒否された理由についてはだれにも明かしていない。母のネリーは晩年、1930年代のジョージは部屋にこもってレコードをかけたり大笑いしたりして「ひとりで大いに楽しんでいた」と語っている。ジョージは口数が多いほうではなかったと言われているが、この奇行は別としても彼は愛想が良く、自分の仕事に関する質問には必ず返答していた。
シカゴ時代
リンジーがマーケットに興味を持った時期や、彼独自のアイデアや手法が生まれた時期は分かっていない。ただ、1939年6月1日に、彼は1475ドルを支払ってシカゴ商品取引所(CBOT)の会員権を取得している。つまり、それまでにいくつかのアイデアを研究し、それを実践で試すための場所を探していたのだろう。しかし、1年後の1940年6月14日にドイツ軍がパリに侵攻すると、CBOTの取引は実質的に停止した。詳しくは第2章で述べるが、『ジ・アザー・ヒストリー』を読むとリンジーが歴史に関する膨大な知識を持っていたことが分かる。おそらくCBOTの近い将来の見通しが明るくないことを予見していた彼は、1940年6月12日の時点でCBOTの会員権を1300ドルで売却した。
ロサンゼルス時代
兄のフランクが仕事を求めてロサンゼルスに移ってから1カ月、無職のジョージと母のネリーが寒いニューヨークを離れて温暖なロサンゼルスに行こうと考えるのは自然なことだった。1944年の有権者名簿には、共和党員としてジョージとネリーが登録されており、住所はハリウッドのアパートになっている。2人はネリーが死去するまで同居していた。
第二次世界大戦が勃発したとき、ジョージは南カリフォルニア大学で航空機工学を学んでおり、そのあと1942~1945年にかけてマクドネル・ダグラスでエンジニアとして働いていたと彼自身が書き残している。ただ、1940年代半ばにはシカゴにいて1942年にはダグラス・エアクラフト(マクドネル・ダグラスの前身)で働いていたことを考えると、南カリフォルニア大学で学んだ期間はそう長くはないと思われる。
ダグラス・エアクラフトが戦争特需で大量採用したなかに、ジョージもいた。しかし、同社の経営は終戦とともに悪化し、10万人の人員削減を余儀なくされた。工学を少しかじっただけの芸術家がそのうちのひとりだったとしても不思議はない。これ以降、ジョージが企業に雇用された記録はない。このとき彼は、すでに他人と一緒に働く重圧とフラストレーションに耐えられなくなっていたのだろう。
彼は1950年に「アン・エイド・ツー・タイミング」(タイミングの指針)というパンフレットを作成し、1951年に投資顧問業を開始した。1950年代にはニューヨークに戻りたくなっていたジョージだったが、乳ガンに侵されていたネリーの世話でカリフォルニア州を離れることはできなかった。彼にはさわやかな南カリフォルニアの空気よりも、寒いニューヨークのほうが性に合っていたようだ。晩年を過ごしたニューヨークで、ジョージが冬でも窓を開け放していたことはよく知られている。ただ、家族によればジョージが最も「輝いていた」のは、死が近いネリーを看護していた時期だという。母親が亡くなると、ジョージはロサンゼルスを引き払い、1955年にニューヨークに戻った。
アナリストとしての生活
ジョージ・リンジーの周りには、伝説的な人物が多くいた。ストック・トレーダーズ・アルマナックを発行していたエール・ハーシュが「ジョージ・リンジーは過去150年間の株価チャートがすべて頭に入っている数少ないひとり」だと書いているが、彼はとにかく「ユニーク」な人物だった。彼は変人、孤独、特異、奇想天外、才能あふれる、典型的な「グリニッチ・ビレッジの自由人」などと呼ばれていた反面、協力的、謙虚、率直、親切、寛大、物に固執しない、他人を助けたいと思っている、間違ったときには素直に認める人だとも言われていた。彼のなかにはまったく異なる2つの性格が混在していたのである。
彼が最後に住んでいたグリニッチ・ビレッジのグッリニッチ・ストリート720番地は、浴室(蛇口は常に水漏れしていた)とスイングドアで仕切られた小さな台所が付いたワンルームのアパートだったが、彼はほとんど料理をしなかった。家具と言えば、彼が寝ていたソファーベッドと仕事に使っていたカードテーブル以外は、小さな本棚と道端で拾ったビーナス誕生のポスターが1枚あるだけで、テレビすら持っていなかった。この部屋は天井が高く、冬も開け放していた大きな窓があった。
夜型のリンジーは、夜に仕事をして午前3時に食事をとるような生活を送っていた。服はすべて義理の姉のメアリーと姪のビッキーがカリフォルニアから送ってきたもので、自分ではワイシャツの1枚も買わなかった。ただ、服や家具には無頓着でも、その生活ぶりからは非常に虚栄心の強い人物だと見られていた。彼は少なくとも二度の整形手術を受けているが、残念ながら最後の手術で眉が上がり、いつも驚いているか眉にやけどを負ったような顔になってしまった。
また、かつらも愛用していた。一時期は、「散髪直後」と「散髪が必要な状態」と「普通の長さ」という3種類を持っていたこともある。
政治観
1970年2月、ラルフ・ネーダーがGM(ゼネラル・モーターズ)を告発する「キャンペーンGM」を発表した。この活動の目的のひとつは、大株主である機関投資家を使ってGMに「大気汚染、高速道路の安全、少数民族の雇用などの問題に本格的に取り組む」ように圧力をかけることだった(『サイエンス』1970年5月29日号、Vol.168、no.3935、1077~1078ページ)。
1971年にGMの株主総会でネーダーの提案が却下された4日後、リンジーは自分のニュースレターの5月28日号で次のように述べている。
「ラルフ・ネーダーの活動の趣旨は、経営には消費者、少数民族、ディーラー、労働者などさまざまなグループがかかわるべきだということにある。これは今日では『消費者主義』と呼ばれているが、実はファシズムと変わらない。ただし、これはヒトラーを連想させるファシズムではなく、1922年にムソリーニが提唱した政策である。GMはその巨大さを非難されているが、これはもちろん社会主義的発想である」(本章で出所を記していない引用文はすべてリンジーが1959~1972年にかけて自ら発行していたニュースレター「ジョージ・リンジーズ・オピニオン」からの引用)。
ここからうかがえるリンジーの洞察と、彼がカリフォルニア州で共和党に登録していたことから、彼は間違いなく右派(保守派)と言ってよいだろう。ここでも、リンジーの政治観とニューヨーク時代に同性愛者だと言われていた彼の相反する性格を見ることができる。当時、仲間のアナリストはリンジーについて派手で、熱しやすく、話し出したらとまらないが、愉快で、陽気な人物だと言っている。真っ赤なかつらと黒のエナメルのブーツに、青いダブルのブレザーとカリフォルニアの親戚が送ってきたストライプのシャツを着たリンジーはかなり目立っていたに違いない。アナリストのジェームス・アルフィエにあてた手紙に、リンジーは「独身で慣習にとらわれない僕は大都市でしか生きていけない」(1971年10月18日)と書いている。
投資顧問業
リンジーは、まだカリフォルニア州に住んでいた1951年に投資顧問業を開設し、この仕事は1975年まで続いた。彼は毎週、投資ニュースレターの「ジョージ・リンジーズ・オピニオン」を執筆していたが、1972年2月(65歳)からは1カ月に1回の発行になった。投資顧問業は1975年まで続け、それ以降はジョン・ブラウンがテキサス州ヒューストンで発行していた「ジ・アドバイザー」に年に4回寄稿していた。1979年からはリンジーのニュースレターを買い取ったアーネスト・アンド・カンパニーのコンサルタントとしてニュースレターの執筆を続け、1984年まで独自の分析を披露した。リンジー自身はトレーディングはせず、調べること自体が好きだった。1969年には目先の相場からマーケットの歴史に関心が移り、過去の「インターバル(期間、日柄)」を調べることで歴史的な出来事を予測できると確信した。彼は、この考えを1971年にワシントンDCで開催された世界未来学会の最初の国際会議で発表した。また、彼が所属していたニューヨークのSIRE(ザ・ソサエティー・フォー・インベスティゲーション・オブ・リカーリング・イベント。繰り返し起こる出来事を調査する団体)でもこの発見について何度か発表している。この内容については次章で詳しく紹介する。
スチュワート・ティーシ
リンジーのニュースレターにリンジーと共に署名しているスチュワート・ティーシは、17年間リンジーと共に会社を運営していた。ティーシは1929年4月29日に生まれた生粋のニューヨーカーで、ロングアイランド大学で足病学を学んだあと足病医として働いているときにテクニカル分析に出合った。彼はすぐにこれに夢中になり、医者をやめてマーケットに没頭した。ティーシの家族もこの会社にかかわっており、彼の母親は簿記係、父親と妻のジャニスは日々の業務を手伝っていた。
1970年代にリンジーが引退すると、スチュワートとジャニスはアリゾナ州に移り、電話による投資顧問業とニュースレターの発行を始めた。彼は晩年はチャールズ・シュワブに勤務し、1998年3月30日にアリゾナ州スコッツデールで亡くなった。 リンジーの評価 1980年までにリンジーの信奉者はかなりの数に上っており、彼を中傷する人はあまりいなかった。ただ、一般的には当時のナンバーワンと言えば、カンザスシティのアナリストで、オン・バランス・ボリューム(OBV指標)で知られるジョー・グランビルだろう。グランビルは、投資会議で棺桶から登場したり、顧客との会合にプールを横切って現れたりするなど、自己演出がうまかった。
リンジーはグランビルと張り合おうとするようなタイプではなかったが、アナリストのジェームス・アルフィエが1981年に「グランビルの検証」というレポートを発表したころには、自分が高い評価を受けていたことを分かっていただろう。このレポートは、グランビルの実績をまとめ、マーケット予想で教祖的人気があったアナリストたちの実績と比較していた。このなかにリンジーも入っていたのである。
リンジーについて書き残しているのはアルフィエだけではない。ストック・トレーダーズ・アルマナックを発行していたエール・ハーシュもリンジーに注目し、1968年から10年以上もリンジーの年間予想をアルマナックに掲載していた。ハーシュは1968年に、「ウォール街の有名アナリストによる年間予想の多くは、毎年1月に発表される。しかしただひとり、過去10年間にわたって不可能としか思えない予想を発表してきた人物がいる。それがジョージ・リンジーズ・オピニオンを発行しているジョージ・リンジーだ。彼は毎年、株式市場の1年間の動きを月別に予想し、ダウ平均の上昇や下落を価格レンジと共に細かく予想するのである」と書いている。同書は、リンジーの1969年の予想を「それまでで最高の長期予想」と称賛している。
1987年になると、リンジーのニュースレターを買い取ったジョン・ブラウンと共同でニュースレターを発行することになり、7月1日に第1号が発行された。リンジーはそのあとすぐに亡くなったが、その前にブラウンに「最後の上昇は1987年8月ごろになると思う」と伝えていた。そして8月25日、最初、ダウ平均は通常の調整かと思われたが最大級の下落に発展し、39日間で40%以上も下落したあと同年10月20日の日中に最安値を付けた。
「ウォールストリートウィーク・ウィズ・ルイス・ルーカイザー」
リンジーは、ルイス・ルーカイザーが司会を務めていたウォールストリートウィークというテレビ番組に2回出演している――1981年10月16日と1983年5月8日。メリーランド・パブリック・テレビジョンが制作したこの番組は、全国放送でウォール街をテーマにした最初の番組で、ルーカイザーが2002年に番組を去るまで32年間も続いた
コートやネクタイが嫌いだったリンジーが、番組に出演するために唯一持っていたワイシャツを着たら左の肩に穴が空いていた話は、リンジー家の笑い話になっている。 2回目に出演したときにいた観客によれば、リンジーはステージに上がるのに苦労して、手助けが必要だったという。
何年かあとに、この番組で過去の出演者の予測力を特集したとき、ルーカイザーは、「史上最大のブル相場が始まる8カ月前の1981年10月に、一見変人のゲストにインタビューをしたが、結局彼の予測は不気味なほど正確だった」と語っている。リンジーが最初に出演した1981年10月に、ルーカイザーが「今回のベア相場を抜けてブル相場に入るのはいつになるのか」と質問すると、リンジーは、「ベア相場は最も早ければ1982年8月26日に終わり、最安値は750~770ドルのレンジになる可能性が高い」と答えた。
このベア相場は、実際には1982年8月9日の日中に最安値を付け、終値で見た最安値はその3日後の776.92ドルだった。
リンジーの死
ニューヨーク・タイムズに掲載されたリンジーの死亡記事によれば、彼は1987年8月6日に心臓発作で亡くなった。彼の墓碑はカリフォルニア州サンノゼのオーク・ヒル・メモリアル・パークにあり、彼の遺骨が埋葬されている。
結び
人の人生を短くまとめることなどできない。本章の目的は、マーケットのタイミングをつかむリンジーの並はずれた能力を記録するだけでなく、その才能を生み出した過程として彼の人生に焦点を当てることにある。芸術家とそうでない人では、目の前の何も書かれていないキャンバスの見方が違う。普通の人は、まず描く対象を細かく描き、そのあと余白にとりかかることが多い。一方、芸術家は画面全体をとらえ、細かい点を気にせず全体を大胆に描いたあと、細かい描写にとりかかる。この手法はリンジーがマーケットを分析するときにもはっきりと見ることができ、今日のテクニカル分析とは大きな違いがある。
本ホームページに掲載されている事項は、投資判断の参考となる情報の提供を目的としたものであり、投資の勧誘を目的としたものではありません。投資方針、投資タイミング等は、ご自身の責任において判断してください。本サービスの情報に基づいて行った取引のいかなる損失についても、当社は一切の責を負いかねますのでご了承ください。また、当社は、当該情報の正確性および完全性を保証または約束するものでなく、今後、予告なしに内容を変更または廃止する場合があります。なお、当該情報の欠落・誤謬等につきましてもその責を負いかねますのでご了承ください。